
さて、この本「生命と物質」を“昭和のくらし博物館”に託されていかれたK・Oさんのことについて少し書いておくことにしましょう。
ご存命なら100歳を超えているはずで、鬼籍に入られている可能性が高いですが、ご本人もしくはご遺族の許諾を得ていないため、ここではイニシャルのみ、お顔写真を掲載せずに文章のみで書いていきたいと思います。
博物館に残されたメモには、次のように書かれています。おそらく、その時に対応された誰かが聞き取られたのでしょう。
「K・Oさん(メモには本名で書かれています) 大田区久ヶ原
20歳のときに藤枝の航空隊に入隊。一年後に少尉になる。
写真は入隊時(20歳)のときと、小さい方は少尉になったときのもの。
軍隊は疎開のようなもので食べものには困らなかった。
訓練は厳しかった。」
入隊時の写真は正面からのもので、詰襟に無帽、丸刈り。
大きな日の丸に寄せ書きをしたものと思われる布を畳んで、たすきがけにしています。
写真館で撮影したような感じです。
小さい方の写真は木造の建物の前で、詰襟に制帽を被った姿で斜めの角度から撮られています。訓練のせいでしょうか、撮り方のせいでしょうか、最初の写真よりも顔が細くなり、大人っぽい表情になっています。この制服がいわゆる「海軍の金ボタン」なのでしょうね。
K・Oさんは実名で検索すると家系図サイトで関連情報が見つかるくらい有名な軍閥の子弟だったはずですが、「軍隊は疎開のようなもので食べものには困らなかった」のくだりでは、当時の食糧事情の厳しさが窺えます。
次にK・Oさんが入隊した「藤枝の航空隊」についても調べてみました。
現在は航空自衛隊静浜基地になっています。
以下は防衛省・航空自衛隊のサイトから転載し、一部補足しました。( )は補足部分です。
「静浜基地は昭和19年(1944年)1月、旧海軍航空隊藤枝基地として建設が開始されました。
同年12月から、彗星、零戦を保有した第131航空隊「芙蓉部隊」の母基地として使用されていました。
芙蓉部隊は、太平洋戦争末期、特攻作戦を採用せず、夜間攻撃により米軍に多大な打撃を与え続けた部隊です。
終戦後、米軍が接収した後、昭和29年(1954年 自衛隊が創設された年、第五福竜丸の事件もこの年です)に防衛庁移管、昭和33年(1958年)に航空自衛隊静浜基地として開設され、
以来、第2操縦学校第2分校、第15飛行教育団、昭和39年(1964年 東京オリンピック開催の年)からは第11飛行教育団と部隊は変わり、
使用機もT-6、T-34、T-3そして現在のT-7と更新されましたが、一貫して操縦教育を担っています。」
この芙蓉部隊というのは、最後まで特攻を行わず夜間攻撃に徹したことで知られているようです。
時事通信社の時事ドットコム(2016年8月25日配信)にも記事がありました。
https://www.jiji.com/jc/v4?id=fuyou201508a0001
芙蓉部隊も終戦間際のアメリカ軍との戦闘でかなりの死者を出しました。名門軍閥の息子さんで幹部候補生、一兵卒とは違うとはいえ、特攻を行わなかった部隊にいたことがK・Oさんにどのような影響を及ぼしたのだろうか、おそらく生存確率は上がったのではと私は想像するのです。
特攻のかわりに夜襲を行う分、訓練はたいへん厳しかったと上記記事にもあります。メモの「訓練は厳しかった」とはこのことをさすのでしょうか。
K・Oさんが少尉になったのが正確にいつなのかはわかりませんが、それから半年と経たずに日本は敗戦を迎えたはずです。その数ヶ月の間に、戦地ではもちろん、直接戦地とならなかった国内各都市でも空襲によってたくさんの人たちが命を落としました。
ちなみに芙蓉部隊を率いた美濃部正さんは、当時20代終わりから30歳くらいの海軍中尉。1997年に亡くなる直前に、そのころのこと綴った「大正っ子の太平洋戦記」という本(私家版)を書かれていて、その復刻版は現在も手に入るようです。
画像は岩波新書と一緒に託されたもので、軍歌「同期の桜」の歌詞が染め抜かれた手ぬぐいです。
比較的新しい感じなので、旧海軍同期会などで配られたものではないでしょうか。