
『日本に何十年も住んでいながら、日本語が話せなかったハンメ(おばあちゃんの韓国語の方言)』
言葉に込められた軽い侮蔑感に、驚いて妹の顔を見返した。幼い頃から『学ぶことが大切』と言われて育った彼女に、ハンメはとんでもない劣等生に映るのだろうか?
ハンメは、1896年に慶尚道で生まれ、10代で、三代一人息子が続いた家に嫁いだ。カトリック信者の家同士の婚姻だった。
朝鮮には『雌鶏が鳴くと家が滅びる』という諺がある。女性は、言葉少なく、姑や姑、夫、息子にただただ従順に尽くすよう育てられた。文字を学べば女性の道を踏み外すとされ、学問などしてはならないとされた。
話は逸れるが、女子教育の殿堂・梨花女子大は1886年開校当時、生徒が集まらず、貧しい家庭の子どもを貰い受けたり、病で道端に倒れていた子どもを引き取ったりして、衣食住を提供しながらようやく教育をはじめたという。
嫁ぎ先では、舅はすでに亡く、厳しい姑(私の曽祖母)に仕える日々だった。姑は私の母にとっても近寄り難い祖母だったらしい。夫を早くに亡くした曽祖母が、当時の朝鮮で女手一つで家を守り、一人息子を育てることは容易ではなかった。朝鮮の田舎では、不心得者から逃れるため山の中で夜を徹したこともあったという。日本にきた後も、朝鮮の風習とカトリックの信仰を頑なに厳しく守った。
例えばハンメは、夫婦で食卓を囲んだ経験がない。ハルべ(おじいちゃんの方言)は、いつも自分の部屋に運ばれた膳で、一人食事した。ハルベは50代、8人兄弟の末っ子の私の母が中学生の頃に亡くなった。1947年のことが。母にとってハルべの唯一の思い出は、亡くなる少し前に『これ食べなさい』とお菓子をもらったことだという。『ハルべはかわいそうだった。いつも一人で。みんなで食べるから美味しいのに』と母が呟いていたことがある。
ハンメが日本に渡ってきたのは30代の頃だった。守ってきた土地を奪われ、生活の糧を求めて一家で玄界灘をこえたのだ。『兄ちゃんが役人にデタラメを言ったせいで土地を全部取られた』と、三男の伯父が兄弟にからかわれるのを何度か見たことがある。三男の彼は兵隊として戦争にも行ったらしい。1960年代に先んじて『日本』国籍を取ったのも彼だった。
後ろで髪をまとめ、白いブラウスとくるぶしまでの長いスカート姿のハンメが、大きな声で話したり、声を出して笑ったりする姿を見たことがない。一人暮らしのハンメは、職業安定所の斡旋で町の掃除をして得るわずかな収入を糧に、一週間に1〜2度、うちに来て私の母と話して一緒に食事するのが楽しみだったようだ。私の母は慶尚道の方言を流暢に話した。幼い頃曽祖母に教えられた言葉を結婚後も同居していた父の両親と使っていたからなのだろう。しかしハンメが母以外、伯父や伯母と朝鮮語で話すことはなかった。日本語しか話さない伯父や伯母と、朝鮮語しかできないハンメの意思疎通の手段は言葉ではなくテレパシーなのかなと、幼い私は不思議に思ったものだ。
1974年5月の早朝、電話が鳴った。二、三日前にうちに来て元気だったハンメが亡くなったという。心臓発作だった。
ハンメが住んでいた家に駆けつけて驚いた。叔父や叔母、いとこまでが、麻でできた朝鮮の伝統的な喪服に身を包み、頭に縄をまいていたのだ。生前にハンメが準備していたという。叔父たちが棺を担いで告別式の行われるカトリック西院教会まで京都の街を皆で行列して歩いたのを覚えている。朝鮮式の野辺送りだった。
墓では、叔父の妻たちが大声で泣き続けた。姑を送る嫁たちの役目だという。彼女たちも朝鮮から来た一世だった。彼女たちはいつも朝鮮語訛りの日本語でオーバーアクションを交えて大声で話し、笑って、泣いた。
ハンメと嫁たちはどちらも朝鮮で生まれ育ったが、それぞれ個性も、育った家庭環境も違う。そして何よりも世代が違う。
19世紀末、朝鮮の封建制度はほころび、近代の風が吹き始めていた。女性の意識も変わり始めていたのだ。
ハンメよりも11歳ほど年下の私の父方の祖母は、大恋愛の末、家族の反対を押し切って祖父と結婚した。
〈参考〉カトリック西院協会に向かう葬列(AI作成)